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2023

今夜、ペンギンカフェで 2

私はフと足を止めた。

今日の今日まで気に留めてなかった、暗い道の向こう側・・・、緩やかにカーブした道の見切れるところ・・辺りになにやらぼんやりと暖色の光が見えた。ほぼ毎日この道を通ってゐるが、その明かりを意識したのは今夜が初めてだった。づっと気づかずにゐたのか、それとも最近灯った灯りなのか・・・?。

私は自然にその灯りに向かってゐた。
かつてはそれなりに賑やかであっただらう、打ち捨てられた商店街の端っこに、その店はあった。
通りに面した部分はほぼ全面ガラス張りの、小さな店だった。
「ペンギン・カフェ」
とAI文字で書かれたネオンサインが点ってゐる。通りの向こうからも確認できた暖色の灯りはそのネオンサインではなく、ガラス張りの店内のあちこちに設置されてゐるランプによるものだったらしい。

こんなところに、こんな店が・・・。

全面ガラス張りの店内を覗くと、カウンターに女性らしき人影が一つ、と、カウンターの中に中年男性の姿が一人確認できた。二人の間には距離があり、常連客と店との馴れ合いを感じさせないその距離には好感を覚える。どうせ家に帰っても一人酒を飲んで寝るだけだ。たまには寄り道もよからう、と、私はその店・・・ペンギン・カフェのドアを開いた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの中の男性が、落ち着いたバリトンの声で迎えてくれた。

私はコートを脱ぎながらカウンターの隅、一人の女性客が座ってゐるのと反対側の端のストゥールに腰掛けた。女性客がチラリと私の方を見る気配があった。私もその女性を見た。目が合った。そして私の思考が停止した。

その女性はしづか に瓜二つだった。

 

今夜、ペンギンカフェで

『お疲れ様でした』

バーテンがさう声をかけてくれた。
私がここでピヤノを弾くやうになる前からカウンターにゐる、ベテランのバーテンだが、多分私より若いのだらう。嫌味なところのない誠実さうな男だった。美男子でもあり、女性客の獲得にも一役買ってゐるのかもしれない。

『ありがとう、君もお疲れさま』

応えて、外に出た。
5月、夜はまだ冷える。私はブルゾンの襟を合わせ、足早に歩いた。「勤務先」であるバァから私の住まうC区画まで、歩いて30分。そこそこの距離だが、私はこの夜の散歩とも云へる道を好んでゐる。まだ手付かずの廃墟・・・、倒壊寸前のやうな建物も多く、そこに潜む闇はそれなりに恐ろしくはあるが、生命以外の貴重品を持たぬ私には、大した脅威でもない。その命ですら、大した重みでもない年齢に差し掛かってしまった。

 

戦争など起こるはずもない、と誰もが思ってゐたこの国で、しかしそれは簡単に起こった。
なにがきっかけだったのか、もはやどうでもいいやうな事で、隣人同士が攻撃し合う国となった。だれもが対岸の火事、と思ってゐた「内戦」が、この東西南北を海に囲まれた極東の小さな島国を席巻したのである。それ以前から「風見鶏政治」と呼ばれ、大国に尻尾を振るだけが取り柄だった無能な政府は、国民はおろか世界各国からもそっぽを向かれ、放置された。自給率も低く、それらしい資源も持たぬ島国内の争いに、本気で加担してくれる国など、どこにもなかった。

それはさうだろう、と私は思ふ。自分の暮らしになんの影響も与えぬもの同士の・・、例えば庭先の虫同士の争いを、たれが本気で気にするだらう。むしろ内戦の勝敗を冷ややかに見据える気風が、世界に満ちてゐた。

世界に無視された国家は拠り所をなくし、政府も警察機構も崩壊し、内戦は内戦のまま国土全体に広がり、1年と少しであっさりと終結した。こんな争いに何の意味もない、といふ事には、誰もが気づいてゐたのだ。

そして、荒廃した都市と、情報を失ったシステムと、全てを諦めたやうな無気力な国民だけが残った。

私はそんな国の、そこそこ被害の少なかった街の、ぼちぼち復興し始めた盛り場で、半分壊れたピヤノを弾いて暮らす、年老いた楽師だった。

戦争前はそれなりに華やいだ暮らしだったが、戦争でほとんど全てを失った。まぁそもそもピヤノを弾く技術以外の大したものは持ってなかったのだが、それなりの痛みは背負った。ひとり暮らし始めたこの街で、私は壊れたピヤノを見つけ、適当に直し、それを弾いた。それが、私なりの、この意味のない戦争と、それによって失った多くのものへのレクイエムだった。私はただピヤノを弾き続けた。

私は演奏が可能な状態のピヤノを見つけるたびに、その場に出向き、思ふがままにそれを奏でた。そしてやがてそれはまた私の「仕事」になった。

戦争・・・、内戦が終結して、3年が経ってゐた。