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今宵、ペンギンカフェで 6

「こんにちは」

私も挨拶を返した。
女性は鼻歌を聞かれてゐた事など意にも介さぬ様子で「ここ、気持ちいいからツイ唄っちゃいました」と云った。

「見事な歌でしたよ。聞き惚れた」

私の本音であった。
AIと密になって作られてゆく音楽業界では、機械のビートやサウンドに乗りやすい、甲高い声のヴォーカルが男女ともに主流となっており、特に女性歌手はみな「鼻にかかった少女の歌声」を持ち味にしてゐた。
目の前の、ピアスだらけの娘の声は見事なアルトで、そんな歌声を聴いたのは本当に久しぶりだった。

「バンドか、なにか、やってるの?」

私の問いに

「いえいえ・・、ただ歌うのが好きなだけです」

と屈託なく笑う。物怖じもせず私に挨拶をしてくる、など、この年頃の女性にしては珍しい奔放さだが、言葉の橋端には年上の私を気遣う様子も見せ、ちゃんと敬語を使ってゐる。私はますます彼女に興味を持った。

「もしよかったら、セッションとか・・・さういふの興味ないかな?」
「あぁ・・・、やったことがないんです、さういふの・・」
「興味もない?」
「いえ・・、興味はありますよ」
「やってみない?僕と」
「なにをですか?」
「だから、セッション、とか」

そんなやりとりの後、私は彼女を連れて「オルケネス」に行った。オルケネスは当時私が月に一度のペースでピヤノを弾いてゐたバァだった。だいぶ調律の荒れたピヤノが置いてあるだけの店だが、24時間開いてゐる、といふ不思議なバァだ。

店までの道すがら、私は自分について語り、彼女の事も訊いた。名前は「しづか」とだけ名乗った。年齢はちょうど二十歳。歳の割に老成した雰囲気を持ってはゐるが、ラフなファッションに若々しいスタイルが誇示されてゐる。美人ではないが艶っぽい、といふ印象は、やはりその低いアルトの声に負うものだらうか。

「ここね、バァなのに24時間やってる、て変わった店なんだよ。いつもここでピヤノ弾いてるんだ」

私はさう云ってドアを開け、しづかを招き入れた。店には客はおらず、マスターが一人で新聞を読んでゐた。店内にはごく小さなヴォリゥムで、グレッチェン・パーラトのライヴ盤が流れてゐた。

「あれ?康平、昼に来るなんて珍しいね」

マスターに声をかけられ、私は彼女を紹介した。私はマスターに、ちょいと興味深い歌を歌う娘だったので、とだけ説明し、ピヤノに向かった。

「さっきの鼻歌、また歌える?」

私は訊ねた。そこで先ほどの歌が即興であった事も初めて知った。
さういふ事なら話は早い。私は適当にコードを鳴らして楽曲を構築しながら、彼女に「これに合わせて適当に歌ってみて」と云った。彼女は歌い始めた。

世紀末楽団「オルカ」の始まりだった。

今夜、ペンギンカフェで 5

「戦争前の・・・、私を・・?」

あの戦争が終わって8年が経ってゐた。
私が「オルカ」のメンバーとして活動してゐたのは、それよりもっと前だ。当時「初老」といふ自虐的なキャラクターだった私も、いまや誰がどう見ても「老人」となった。

目の前の女性・・・「オルカ」のしづかに瓜二つの女性はしかし、どう見ても二十歳をいくつか超えたぐらいにしか見えない。戦争前にはまだローティーンだったのではないか?。もちろんローティーンの少女が私たちを聴いてゐた可能性がないわけではない。しかし、さういふ少女の記憶に残るほど、私たちはメジャーの現場にゐた訳でもない。

私の戸惑いを察して、その女性は微笑みながら言った。

「突然、失礼しました。私は十和田真澄、と申します。もと『オルカ』の貝田康平さん、ですよね?」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

オルカはしづかと私・・貝田康平で作ったバンドだった。

物心着く頃にはもぅピヤノを弾いてゐた私は、さして苦労した覚えもなく、なんとなく職業音楽家になった。それより少し前から、音楽とAI(人工知能)は密接なつながりを持ち始め、演奏も創作も、AIの介在なしには成り立たない風潮が自然となった。
そもそも流行り廃りの激しかったこの国の音楽産業は、ある時期から完全にAIに支配されたのである。

民衆の好みがデータ化され、データに基づく音楽が生み出され、それは狙った通り民衆に受け入れられ、それが多岐に渡るにつれ、音楽も多様化し、技術はさらに洗練されていった。「ヒットチャート」といふものが意味をなくし、売れるべくして作られた音楽だけが売れる世界となった。

創作も演奏もAIに取って代わられ、多くの音楽家が失業に追い込まれた、と聞いてゐる。

私は元々、職業音楽家=プロであることに、さほどこだわりを持ってなかったので、仕事が減れば減ったで生活を変え、時には肉体労働で日々の糧を得て、気の向くままにピヤノを弾く暮らしを続けた。そして、在野には必ず「さういふ音楽」を求める人たちはゐた。AIが介在しない音楽を愛する人たちと共に、私も音楽を愛し続けた。

その頃、しづかと出会った。

ある日、たまたま散歩で通りかかった川沿いの遊歩道に、びっくりするほど大きな声で鼻歌を歌ってゐる女性がゐた。
周りの人間が二度見してしまうほど大きな声だったが、本人は気持ちよささうに歌い続けた。一瞬「はしたないな」とも思ったが、それにしてはあまりにその歌声が見事だった。

その時彼女が歌ってゐたのは、聞いたことのない言葉で歌われる聴いたことのない曲だった。あとで即興だったと知るのだが、高音が少し掠れるところや、深い呼吸でコントロールされる音程感が素晴らしく、私はしばらく聞き惚れてゐた。

私がぢっと聴いてゐることも意に介さぬやうで、歌い終わると私に向かって深々とお辞儀までした。

短めのボブカット。空いてるところがないほど埋め尽くされた耳のピアス。やや日焼けした細身の身体に、白いTシャーツとジーンズ、といふラフな格好。切れ長の目は「美人」と呼ぶにはやや難がある気がするが、充分魅力的な娘だった。

「こんにちわ」と彼女が言った。

今夜、ペンギンカフェで 4

酒が運ばれて来た。
いまどき珍しい大ぶりな氷が二つ入ったグラスの半分ほどを、褐色の液体が満たしてゐた。芳醇な甘い香り。
『本当いふと違法なんですが、ウチで作ってる蒸留酒なんです』
とマスター。
口にすると、はるか昔に味わったバーボンヰスキィのやうな味わいだ。

「うまいね」

思はず口をついて出た私の賛辞に、マスターは莞爾と笑ってうなづく。

『お客様の年頃だと、この味をご存知ですよね・・・。戦争前は当たり前に呑めてゐた』
「うん、バーボンの味だね」
『小麦を使わずにこの味を出すのに苦労しました。まぁ、偽物っちゃ偽物ですがね__』

やや自嘲気味に語るマスターは、歳の頃40を少し過ぎた辺りだらうか?。戦争前、と言ったが、その頃には彼はまだ「青年」であったはずだ。こんな辺鄙な場所で、この時代にバァを出すことになった経緯を尋ねてみたい気もしたが、そこは堪えた。詮索好きの老人、と思はれたくはない。

「密造酒」の酔いは心地良かった。
だいぶ強い酒なのだらうが、合成酒のやうな嫌な雑味もなく、適度なパンチを持って喉を過ぎ、ゆっくりと身体に火照りを灯してくれる。マスターも必要以上に話しかけてくることなく、私はすっかり寛いでゐた。

「ピヤノを弾いてゐる方ですよね?」

女の声で唐突に傍から声をかけられ、私は少し驚いて目を向けた。
あの、しづかに瓜二つの女性がこちらを向いてゐた。微笑みの名残を残す口元に、しづかにはなかった黒子が見て取れる。

「・・・失礼。どこかでお目にかかりましたか?」

私の問いに、女性は静かに首を振り

「いえ・・一方的に知ってゐるだけです。戦争前のあなたを」

今夜、ペンギンカフェで 3

一瞬、思考が停止したが、私はすぐに我に帰った。
私の知ってるしづかがここにゐるはずはない。目の前にゐるのは私が30代の頃・・・・二十数年前に知ってゐるしづかで、私がすでに半世紀以上の人生を生きてゐることを思へば、そんな事はありえない。

そしてなにより、しづかはもぅこの世にいない。

私はぎこちなく笑い、一瞬ではあったがその女性を鋭く見つめてしまったことを、正直に詫びた。
「失礼しました。知人によく似ておられたもので・・・」
さういふことを初対面の女性に言っても、まぁ幸か不幸か警戒されない年齢にはなってゐる。
女性の方も感じの良い微笑みを返し、うなづいてくれた。冷や汗が出た。

動揺を隠すために、私はマスターに声をかけ、酒を注文した。何があるか?との問いに
「出回ってる合成酒より、少しはいいのがあります」
とマスター。私はおまかせでそれを、と注文した。

酒が出てくるまでの間、私は店の調度を見るとはなく見てゐた。

私が通りから見た灯りは、カウンターの背後ほぼ全てを占める大きなガラスの窓で、おそらく外から中は丸見えだらうが、表の通りには人影はなく、日頃もここを通りかかる人はさほど多くはないのだらう。
カウンターも酒棚も、ほどよく使い込まれた光沢を放っており、戦争前からここにあったかのやうに思はせる。アンティーク、といふよりは単純に「古びてゐる」といふかんぢで、その古さは好ましかった。店の全ての照明を「本物の」ランプが担ってをり、その暖かい光は店の調度と見事に馴染んでゐた。

そして私は、カウンターの端に座る、しづかによく似た女性を、ついつい目に捉えてしまうのを避けれなかった。

見れば見るほどよく似てゐた。
短めのボブカット、やや切れ長の目元、しづか本人がいつも気にしてゐた、ちょっと上を向いた鼻、顎から耳にかけてのカーブなど、本当に瓜二つだった。しづかと違うのは耳だけだ。しづかの耳は、もぅ空いてる所がないほどピアスが穿たれ、その輝きを見ながらピアノを弾くのは、私の人生において、最高の時間の一つでもあった。

しづかと私は「オルカ」といふバンドの、ヴォーカリストとピヤニストだった。
私はバンドのオーガナイザーであり、リーダーであり、コンポーザーで、しづかは完璧な「歌姫」だった。
戦争が始まる、数年前までの話だ。

 

 

今夜、ペンギンカフェで 2

私はフと足を止めた。

今日の今日まで気に留めてなかった、暗い道の向こう側・・・、緩やかにカーブした道の見切れるところ・・辺りになにやらぼんやりと暖色の光が見えた。ほぼ毎日この道を通ってゐるが、その明かりを意識したのは今夜が初めてだった。づっと気づかずにゐたのか、それとも最近灯った灯りなのか・・・?。

私は自然にその灯りに向かってゐた。
かつてはそれなりに賑やかであっただらう、打ち捨てられた商店街の端っこに、その店はあった。
通りに面した部分はほぼ全面ガラス張りの、小さな店だった。
「ペンギン・カフェ」
とAI文字で書かれたネオンサインが点ってゐる。通りの向こうからも確認できた暖色の灯りはそのネオンサインではなく、ガラス張りの店内のあちこちに設置されてゐるランプによるものだったらしい。

こんなところに、こんな店が・・・。

全面ガラス張りの店内を覗くと、カウンターに女性らしき人影が一つ、と、カウンターの中に中年男性の姿が一人確認できた。二人の間には距離があり、常連客と店との馴れ合いを感じさせないその距離には好感を覚える。どうせ家に帰っても一人酒を飲んで寝るだけだ。たまには寄り道もよからう、と、私はその店・・・ペンギン・カフェのドアを開いた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの中の男性が、落ち着いたバリトンの声で迎えてくれた。

私はコートを脱ぎながらカウンターの隅、一人の女性客が座ってゐるのと反対側の端のストゥールに腰掛けた。女性客がチラリと私の方を見る気配があった。私もその女性を見た。目が合った。そして私の思考が停止した。

その女性はしづか に瓜二つだった。