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今夜、ペンギンカフェで 2
私はフと足を止めた。
今日の今日まで気に留めてなかった、暗い道の向こう側・・・、緩やかにカーブした道の見切れるところ・・辺りになにやらぼんやりと暖色の光が見えた。ほぼ毎日この道を通ってゐるが、その明かりを意識したのは今夜が初めてだった。づっと気づかずにゐたのか、それとも最近灯った灯りなのか・・・?。
私は自然にその灯りに向かってゐた。
かつてはそれなりに賑やかであっただらう、打ち捨てられた商店街の端っこに、その店はあった。
通りに面した部分はほぼ全面ガラス張りの、小さな店だった。
「ペンギン・カフェ」
とAI文字で書かれたネオンサインが点ってゐる。通りの向こうからも確認できた暖色の灯りはそのネオンサインではなく、ガラス張りの店内のあちこちに設置されてゐるランプによるものだったらしい。
こんなところに、こんな店が・・・。
全面ガラス張りの店内を覗くと、カウンターに女性らしき人影が一つ、と、カウンターの中に中年男性の姿が一人確認できた。二人の間には距離があり、常連客と店との馴れ合いを感じさせないその距離には好感を覚える。どうせ家に帰っても一人酒を飲んで寝るだけだ。たまには寄り道もよからう、と、私はその店・・・ペンギン・カフェのドアを開いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中の男性が、落ち着いたバリトンの声で迎えてくれた。
私はコートを脱ぎながらカウンターの隅、一人の女性客が座ってゐるのと反対側の端のストゥールに腰掛けた。女性客がチラリと私の方を見る気配があった。私もその女性を見た。目が合った。そして私の思考が停止した。
その女性はしづか に瓜二つだった。
今夜、ペンギンカフェで
『お疲れ様でした』
バーテンがさう声をかけてくれた。
私がここでピヤノを弾くやうになる前からカウンターにゐる、ベテランのバーテンだが、多分私より若いのだらう。嫌味なところのない誠実さうな男だった。美男子でもあり、女性客の獲得にも一役買ってゐるのかもしれない。
『ありがとう、君もお疲れさま』
応えて、外に出た。
5月、夜はまだ冷える。私はブルゾンの襟を合わせ、足早に歩いた。「勤務先」であるバァから私の住まうC区画まで、歩いて30分。そこそこの距離だが、私はこの夜の散歩とも云へる道を好んでゐる。まだ手付かずの廃墟・・・、倒壊寸前のやうな建物も多く、そこに潜む闇はそれなりに恐ろしくはあるが、生命以外の貴重品を持たぬ私には、大した脅威でもない。その命ですら、大した重みでもない年齢に差し掛かってしまった。
戦争など起こるはずもない、と誰もが思ってゐたこの国で、しかしそれは簡単に起こった。
なにがきっかけだったのか、もはやどうでもいいやうな事で、隣人同士が攻撃し合う国となった。だれもが対岸の火事、と思ってゐた「内戦」が、この東西南北を海に囲まれた極東の小さな島国を席巻したのである。それ以前から「風見鶏政治」と呼ばれ、大国に尻尾を振るだけが取り柄だった無能な政府は、国民はおろか世界各国からもそっぽを向かれ、放置された。自給率も低く、それらしい資源も持たぬ島国内の争いに、本気で加担してくれる国など、どこにもなかった。
それはさうだろう、と私は思ふ。自分の暮らしになんの影響も与えぬもの同士の・・、例えば庭先の虫同士の争いを、たれが本気で気にするだらう。むしろ内戦の勝敗を冷ややかに見据える気風が、世界に満ちてゐた。
世界に無視された国家は拠り所をなくし、政府も警察機構も崩壊し、内戦は内戦のまま国土全体に広がり、1年と少しであっさりと終結した。こんな争いに何の意味もない、といふ事には、誰もが気づいてゐたのだ。
そして、荒廃した都市と、情報を失ったシステムと、全てを諦めたやうな無気力な国民だけが残った。
私はそんな国の、そこそこ被害の少なかった街の、ぼちぼち復興し始めた盛り場で、半分壊れたピヤノを弾いて暮らす、年老いた楽師だった。
戦争前はそれなりに華やいだ暮らしだったが、戦争でほとんど全てを失った。まぁそもそもピヤノを弾く技術以外の大したものは持ってなかったのだが、それなりの痛みは背負った。ひとり暮らし始めたこの街で、私は壊れたピヤノを見つけ、適当に直し、それを弾いた。それが、私なりの、この意味のない戦争と、それによって失った多くのものへのレクイエムだった。私はただピヤノを弾き続けた。
私は演奏が可能な状態のピヤノを見つけるたびに、その場に出向き、思ふがままにそれを奏でた。そしてやがてそれはまた私の「仕事」になった。
戦争・・・、内戦が終結して、3年が経ってゐた。
如月も半ばをすぎ
バンドとして誕生以降、外的な理由でライヴがないひと月、といふのをまた経験中のしーシュです。
約10年ぐらい前、私 シュウはまだフェースブックに席を置いておらず、SNSでの発信はおもにしーなが担当しておりました。
今読み返しても、甲斐甲斐しくマメにライヴスケヂュールを更新してくれておりました。
逆に云うと、さういふ「ネタ」に事欠かぬ=告知するべきライヴ活動に満ち満ちてゐた、といふことでもあるでしょう。
水上はるこさんの著書『レモン・ソング』といふのがあるのですが、フィクションながらここで描かれる「70年代〜を生き抜いたロック・ミュージシャンたちの奔放な日々」が美しいです。
『さうさう!これよ!』
といふやうな、要は我ら楽師は、かういふモノに憧れてゐたんだよなぁ、といふかんぢです。
私は数年ほど、いわゆる「カタギ勤め」の経験があるのですが、仕事そのものよりも、そのためにせねばならぬ「早寝早起き」がイヤでイヤで・・・・。「いつかこんな仕事はサデ辞めて、朝まで起きてて昼に寝て夜に活くる日々を過ごすのだ!」と、それを夢に日々を生きておりました。
よもや、それが可能な晩年になって、自分の意思で早寝早起きの暮らしをする日々が来ようなどとは露とも思はなんだですねぇ。
ライヴもなく、旅もない今の暮らしでは、本当に早寝早起き、小食、であります。
あてもなくツラツラと書きましたが、もはやあんまり読む人もいませんからねぇ、ここ・・・。
寅年を迎え
新年明けましておめでとうあります。
去年はコロナ2年目、といふことで色々と活動の制限を余儀なくされましたが、その中でも配信や配信や配信やタマのツアーで、我らはよくやったと自分らを褒めてゐます。2年ぶりに会うツアー仲間に会えたりしたのも嬉しかったですね。
思へばコロナが始まった頃は、負けるものか!といふ気概が強く、また世間的にも怯えながらもそのやうな風潮は感じましたので、ぢつを云ふと個人的にはウキウキしたかんぢもありました(私は、ね・・)。
しかしいつまで経っても進展しない状況、その中で、結局大きな政治力はいぜん力を持ち続け、阿呆な政治屋はなんの決断も出せず、マスコミはひたすら国民を怯えさせるだけで打開策も示さず、仲の良かった人々の間にさえ、意味のない溝ができ、まったく不毛な諍いまで起こるやうになり、もぅいい加減ウンザリです。
「自粛疲れ」などとマスコミは云ひますが、疲れてなんぞないのです。
ただ「呆れて」ゐるだけで。
さう、結局、我らから自由や他の多くを奪ったのは、コロナそのものではなく、この「風潮」に他ならないのです。
まぁそんな事を声高にアジったって仕方ありません。
ライヴや旅ができるためなら、我らはなんでもしますよ。
瑣末なことに時間を割いて、ただただ老いを促進させる無駄な時間は、我らにはないのです。
さう。我らに明日は、あんまりない。
今年もそんなかんぢで進んでまいります。
よろしくお願いします。
楽師のつぶやき
更新が滞っておりますしーシュのブログ
ごめんなさいね。
コロナが〜といふ接頭語にももぅ飽き飽きしたかんぢですが、だらだら続くこの混乱にも、人々が慣れ、またその慣れから生じる新しい混乱もあり、まぁ人の世といふは無常といふか性懲りのない、といふか・・・
楽師といふものは、雇い手=聴き手、があって初めて成り立つ仕事ですが、まぁそればかりではない。こんなご時世の中、もっと混乱した世界の中にあっても、楽師、音楽家といふは存在しております。たれに求められる訳でなくとも、自らを音楽家として存在させる事ができる人だけが、真の楽師と言へるでしょう。
昔、酒の席でこんな議論をした事があります。
今のニポンは幸いにも豊かで自由であり、プロであらうがアマであらうが、音楽をやる、やりたい、といふ意思が「体制の力」で挫けることは、ほぼないと言へるでしょう。あるとすればそは「家庭の事情」で、私は知っておりますが『日頃の仕事だけで火の車なのにツアーに出るなんざあーたは何を考へてゐるの?』と云はれる楽師もゐたと聞きます。
ま、それはそれで勝手にやってください。
問題なのは、「自由に音楽をやってはならない」といふ力が働く場合です。
世界には、不幸にもまださういふ国がいっぱいあります。政治的に、風潮的に、宗教的に、音楽が許されない国。忘れがちですが、ツイ数十年前のニポンもさうだったのです。そして、このたびのコロナ状況下でも・・・・。
そんな時勢の中で、我は楽師なり、と高らかに言へるモノであるか?。
銃を向けられ、歌ったら撃つ、と言はれて私は歌えるか?。
たれも音楽なんぞ求めなくなった中で、ただ自分の心のためだけに、音楽を作り続ける事ができるか?。
私は今もそれを考へ続けながら、楽師をやらせていただいております。