ブログ

Blog

今夜、ペンギンカフェで 3

一瞬、思考が停止したが、私はすぐに我に帰った。
私の知ってるしづかがここにゐるはずはない。目の前にゐるのは私が30代の頃・・・・二十数年前に知ってゐるしづかで、私がすでに半世紀以上の人生を生きてゐることを思へば、そんな事はありえない。

そしてなにより、しづかはもぅこの世にいない。

私はぎこちなく笑い、一瞬ではあったがその女性を鋭く見つめてしまったことを、正直に詫びた。
「失礼しました。知人によく似ておられたもので・・・」
さういふことを初対面の女性に言っても、まぁ幸か不幸か警戒されない年齢にはなってゐる。
女性の方も感じの良い微笑みを返し、うなづいてくれた。冷や汗が出た。

動揺を隠すために、私はマスターに声をかけ、酒を注文した。何があるか?との問いに
「出回ってる合成酒より、少しはいいのがあります」
とマスター。私はおまかせでそれを、と注文した。

酒が出てくるまでの間、私は店の調度を見るとはなく見てゐた。

私が通りから見た灯りは、カウンターの背後ほぼ全てを占める大きなガラスの窓で、おそらく外から中は丸見えだらうが、表の通りには人影はなく、日頃もここを通りかかる人はさほど多くはないのだらう。
カウンターも酒棚も、ほどよく使い込まれた光沢を放っており、戦争前からここにあったかのやうに思はせる。アンティーク、といふよりは単純に「古びてゐる」といふかんぢで、その古さは好ましかった。店の全ての照明を「本物の」ランプが担ってをり、その暖かい光は店の調度と見事に馴染んでゐた。

そして私は、カウンターの端に座る、しづかによく似た女性を、ついつい目に捉えてしまうのを避けれなかった。

見れば見るほどよく似てゐた。
短めのボブカット、やや切れ長の目元、しづか本人がいつも気にしてゐた、ちょっと上を向いた鼻、顎から耳にかけてのカーブなど、本当に瓜二つだった。しづかと違うのは耳だけだ。しづかの耳は、もぅ空いてる所がないほどピアスが穿たれ、その輝きを見ながらピアノを弾くのは、私の人生において、最高の時間の一つでもあった。

しづかと私は「オルカ」といふバンドの、ヴォーカリストとピヤニストだった。
私はバンドのオーガナイザーであり、リーダーであり、コンポーザーで、しづかは完璧な「歌姫」だった。
戦争が始まる、数年前までの話だ。