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今夜、ペンギンカフェで 5
「戦争前の・・・、私を・・?」
あの戦争が終わって8年が経ってゐた。
私が「オルカ」のメンバーとして活動してゐたのは、それよりもっと前だ。当時「初老」といふ自虐的なキャラクターだった私も、いまや誰がどう見ても「老人」となった。
目の前の女性・・・「オルカ」のしづかに瓜二つの女性はしかし、どう見ても二十歳をいくつか超えたぐらいにしか見えない。戦争前にはまだローティーンだったのではないか?。もちろんローティーンの少女が私たちを聴いてゐた可能性がないわけではない。しかし、さういふ少女の記憶に残るほど、私たちはメジャーの現場にゐた訳でもない。
私の戸惑いを察して、その女性は微笑みながら言った。
「突然、失礼しました。私は十和田真澄、と申します。もと『オルカ』の貝田康平さん、ですよね?」
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オルカはしづかと私・・貝田康平で作ったバンドだった。
物心着く頃にはもぅピヤノを弾いてゐた私は、さして苦労した覚えもなく、なんとなく職業音楽家になった。それより少し前から、音楽とAI(人工知能)は密接なつながりを持ち始め、演奏も創作も、AIの介在なしには成り立たない風潮が自然となった。
そもそも流行り廃りの激しかったこの国の音楽産業は、ある時期から完全にAIに支配されたのである。
民衆の好みがデータ化され、データに基づく音楽が生み出され、それは狙った通り民衆に受け入れられ、それが多岐に渡るにつれ、音楽も多様化し、技術はさらに洗練されていった。「ヒットチャート」といふものが意味をなくし、売れるべくして作られた音楽だけが売れる世界となった。
創作も演奏もAIに取って代わられ、多くの音楽家が失業に追い込まれた、と聞いてゐる。
私は元々、職業音楽家=プロであることに、さほどこだわりを持ってなかったので、仕事が減れば減ったで生活を変え、時には肉体労働で日々の糧を得て、気の向くままにピヤノを弾く暮らしを続けた。そして、在野には必ず「さういふ音楽」を求める人たちはゐた。AIが介在しない音楽を愛する人たちと共に、私も音楽を愛し続けた。
その頃、しづかと出会った。
ある日、たまたま散歩で通りかかった川沿いの遊歩道に、びっくりするほど大きな声で鼻歌を歌ってゐる女性がゐた。
周りの人間が二度見してしまうほど大きな声だったが、本人は気持ちよささうに歌い続けた。一瞬「はしたないな」とも思ったが、それにしてはあまりにその歌声が見事だった。
その時彼女が歌ってゐたのは、聞いたことのない言葉で歌われる聴いたことのない曲だった。あとで即興だったと知るのだが、高音が少し掠れるところや、深い呼吸でコントロールされる音程感が素晴らしく、私はしばらく聞き惚れてゐた。
私がぢっと聴いてゐることも意に介さぬやうで、歌い終わると私に向かって深々とお辞儀までした。
短めのボブカット。空いてるところがないほど埋め尽くされた耳のピアス。やや日焼けした細身の身体に、白いTシャーツとジーンズ、といふラフな格好。切れ長の目は「美人」と呼ぶにはやや難がある気がするが、充分魅力的な娘だった。
「こんにちわ」と彼女が言った。